芸術思考
水墨画の今と将来
王俊宇瀟(1999年)

 水墨画教室を設立以来、速くも十年になろうところです。水墨画を知る、習う方も急速に増えつつあり、これはとても喜ばしい現象です。当然、水墨画に対する認識や理解も人によって違いますし、教える先生方も教育方針や教え方など各々異なります。

 私が思うには、水墨画というものは絵の好きな方なら誰でも書けるものだと確信しています。技法がたくさんあるけど、長い歴史を経って非常に分かり易く整理されているので、最初は多少難しくても努力すれば、時間の経つにつれ慣れるものなのです。私はいつも教室の皆さんに「上手」「下手」の考え方を捨てること、他人と比べないことはもっとも大事なことだと言っています。そもそも、絵というものは自分のために楽しく書くものなのですから、人と比べる必要もないし、「上手」「下手」の基準も一定してないから比べようもないです。実際の経験から見ても、楽しく、伸びやかに書いた絵は大概良い絵が多い、たとえ技法的に多少欠点があっても生き生きとした個性的な絵になります。今、各教室の皆さんがこのように絵を楽しんでいます。結果として日本国内や海外の公募展に入選、入賞者が増えています。

 しかし、画家の立場から言うと、もっと高い ステージでものを見なければなりません。ただ物を忠実に、綺麗に書くだけでは優秀な画家と言えません。やはりどこにもない、自分だけの独特な作品を作り上げる事は全ての絵かきの目標です。そのため、絵の技法や知識以外に、歴史や文学等の教養も身に付けなければなりません。また、世界の山や川、或は建築や民族風習など見なければなりません。歴史と世界の視点から水墨画や自分の存在を認識し、古典や他画種の優れたものを吸収しながら、地方性のある個性的な、世界中の人々が認めてくれる作品を作る事が私の夢です。個性が地方性の中で存在し、豊かな地方性が含まれている個性こそ真の個性で、世界中で通用するものだと私は思います。

 紙に向かって、真の気持ちで正直に書けば、心が自然に紙面に現わしてくれるし、本当の個性的な作品が出来ます。これは一般愛好家もプロの画家も、今も将来も同じことだと言えるでしょう。

白黒境地 虚無精神 - 現代に生きる伝統
王俊宇瀟(2004年)

 今の日本に於いて、真の水墨画の極意を目指す人は苦悩が大きいはずである。

 まずは、なかなか理解されないという悲しい現状にある。たった数年間という短い期間に水墨画を接しただけで達人であるかのように教室を開いたり、基本も分らず、基礎訓練もしないまま、ただ筆と墨を遣って紙の上に写真やスケッチの真似をするだけで水墨画家と自称したり、そういった基本知識も探究精神もさっぱりの「作品」が一般大衆の美的センスを毒しているのは痛々しい現実である。その反面、プロの画家を自負する先生達はと言えば、水墨画が素人のお遊びと見る傾向がある。魅力ある現代水墨作品が極めて少ない事情を考えると、無理もないと納得せざるを得なくなるのもまた悲惨な現実である。勿論、個人の趣味として水墨画を楽しむこと自体は喜ばしい現象であり、結構なことである。それにしても、正しい知識や奥深い魅力を知っていれば、楽しさも一層拡がることに違いがないである。このへんは今回の議題と違う分野の話であるので、またの機会を待ちたいと存じる。ところで、今話した正反対の二つ現実は、原因が同じである、つまり、水墨画はいかに奥深く、理解を得るには並み大抵の難しさではないことを意味している。

 もう一つは、水墨画自体の素晴らしさと歴史の悠久さにある。歴史が長いから名作も多い、それらが輝かしい美術史を綴ると共にに、立派な伝統を作り上げた功績もある。ところで、優秀な伝統が誇りになの同時に、重い負担にもなっている。伝統文化の奥深い素晴らしさが感じれば感じる程越えることが困難であり、大きな悩みにもなる。

 伝統とういう言葉が今やよく耳にするが、実際の所、人によって伝統に対する認識や理解が異なるし、当然語る時の意味合いやニュアンスもかなり違いがあることがあたりまえに思える。名作に見られる華麗な筆さばきによる線の豊な表現力、あるいは墨と紙(時には絹や壁面)の見事な組み合わせによる滲みの微妙な味わい、または詩、書、画、印という四つ異なる分野の芸術が一つの画面に統合する瞬間に生み出された形式的美しさ……これらがすべて伝統の一部分であることは疑いの余地があるまい。しかし、このような表現手段や観賞形式が絶えずに変化しつつことも無視してはならない事実である。時代の推移や社会の進歩と共に道具や素財が進化し、道具と素材の進化が原因で表現の技や手段も変わり、または画面の形式も異なる、このような事実は歴史がすでに証明している。例えば、現存の絵画名作を見てみると、唐以前は絹本がほとんどであり、宋になってから紙本作品が多くなり、元以降明、清に至って、紙本が主流になっている現象は絹の生産加工技術が紙より先行している事実を考えれば何の不思議もあるまい。(王羲之など唐以前の書の作品では紙が良く使われたことから見れば、初期の紙が当時の絵画に向いてないことが推測できる)。また、製紙技術が発達し、紙が絵画に頻繁に使われた宋時代に米南宮親子は墨韻の表現をメインとする"米点"という手法を生み出し、それまで筆の線をメインとする既成観念を一変した出来事も偶然ではないと信じている。紙が絹よりも墨の滲み味を引き出すのに適していることを我々に物語っている。更に、初期の製造制限が原因で幅広い絹あるいは紙がなかなか出来ないため、唐と宋は巻き物が主流という現象も納得できる。墨に関しても、原材料や製造過程が時代や地域により違いが見られる。このように、絵画材料、表現手法、画面形式などが時代と共に進化し、新しい手法や形式が優れた伝統を受け継ぎながら生まれつつ、やがて時代を重なるうちにその新しいものも伝統に加えることになる。その考え方からすれば、現代に生きる我々が今にある絵画に適すると思われる素材や道具を使い、それに合うと思われる表現手法を駆使して作品を制作することは極あたりまえの事は言うまでもないであろう。ちなみに、私個人場合は墨の滲み具合、いわゆる墨韻というものを非常に大事にし、また筆跡も極めて重要と見ているる。けれども必ずにも紙、墨、筆だけを遣うとは限らない、時には布や板に描いたり、あるいは水溶性の絵の具を刷毛を遣って描いたりといろいろ実験している、また作品の寸法や形式も現代人の生活スタイルと居住空間、観賞習慣に合致するように努力している、いつかは想像したイメージを表現できる材料や手法を見つかることを夢見ている。当然の事ですが、このようにできるには、伝統技法や基礎をしっかり勉強しなければならない、知識も基本も知らないのは論外であるのは言うまでもない反面、単に昔の技や手法を真似するだけで伝統という名を冠することは優れ た伝統に対する誤解と歪曲でしかないことであるも強調しなければならない。正しい知識をもとに地道な基礎訓練の上、勇気ある新しい挑戦をし続けることこそ伝統が真の意味で伝承され、また新しい時代に生き続け事が可能になると堅く信じている。

 けれども、今お話した技法や材料等はあくまでも伝統という巨大な宝庫の一端だけであり、表面的な部分でしかないことを改めて認識しておく必要がある。伝統の神髄とは、作品の奥に潜んでいる文化心理や芸術思考、審美習慣といった精神的な要素でなければならないと主張したいである。哲学史の角度から見てみれば、インド仏教が伝来し、取り分け禅学の"空"の発想が中国元来にある老、荘思想の"虚"、"無"の理論と絶妙な融合により、"皆空"、"一切無"といった考え方が一般文人の間で拡がり、所謂"万物同一"、"心物同一"といった具合のように、物事の実体の存在感や是か非の区別よりも、心の方が重視され、強調されるようになったわけである。禅宗の"不立文字、以心伝心"のような哲学的思考方式が芸術思考に浸透し、一種の文化心理になり、遂に "黒は即ち白であり、白は即ち黒であり"という禅学的考え方も絵画理論の"計白当黒"(白を計らい、黒の役割に当る)に変わり、芸術思考の一つ特徴として定着したことも無縁とは思えないである。そして色彩溢れる原風景も一変して淡泊幽遠、和敬静寂の墨一色の世界になり、ここでは現実の山や川など万物の色がすべて白黒に還元され、自然界の色が総べて無意味になり、残ったのが心象風景のみである。無論このような淡泊幽遠、和敬静寂の世界が文化心理の立場では文人達が求める心の理想郷であることも指摘しておかなければならないが、芸術論の分野では、むしろ芸術思考や審美習慣の特徴として捕らえたいのは私の考えであり、堅苦しくないである。馬遠の広い余白を残したままの構図から紙一杯に墨を流し込んだ溌墨の発想まで、見かけこそ正反対ですが、芸術思考の立場から考えれば共通点が明らかである。

 このような現実の色彩をなくして墨一色で芸術創作をする思考方式の終着点が作品の "意"や"韻"といった精神要素を表すことを最高目標とする芸術基準が生まれた訳である。(ここでいう"韻"は謝赫の"気韻"とはニュアンスが違い、私は銭鐘書先生の"気韻、生動なり"の句点に賛同する)。"得意忘象"、"写意"、"意が筆より先に在り"、"線が切れても意が続く"といった言葉が云うように、技や手法よりも作意のあり方が芸術の第一基準になる以上、具体的な色彩や形といった外見的なものはどうでもよくなり、作者の人格、作品の気品、そして"詩意"をはじめとする文学的味わい、"禅意"をはじめとする哲学思考など精神要素が他のなによりも重視される結果にった。そのため、芸術創作に携わる人間に対し"万巻の本を読む、万里の路を行く"というような教養や見聞も自然と求める必要になる。

 ところで、この"意"というのは人間の精神活動の結果の一部分であり、物理的な形も色もない非常に抽象的なものであるから、表現するのも至難の技である。形も色彩も現実と距離を置く墨一色の世界こそが人々の観賞する目を原風景から離れされ、画面の奥に潜んでいる"意"へ導いて行くことが誠に巧みな発想だと感心するばかりである。色彩や形が現実と距離があるからこそが絵を見る人に想像の余地を与え、それぞれの見方や感じ方ができるようになり、一方このように見る人の想像空間が残されることこそが作品の"余韻"や"意"が更に拡がることも可能になる。これはやはり西洋的な是か非をはっきりする価値観、理性的な思考方と、東洋的含蓄、朦朧を好む価値観、感性的な思考方の根本的な違いである。このような価値観は絵画作品だけでなく、哲学や文学、芝居、芸術理論まで浸透していることは文学史や批評史などを少し渉猟したことがある方ならよく存じることであろう。文学では、"此時無声勝有声"(白楽天『琵琶行』)という名句が色や形、音といった人間の目や耳など器官で感覚できるものに訴える表現方法や芸術思考は一流とは言えず、逆に現実世界と直接結びつかない要素により自然界の美や人間の心を感じさせる方法が芸術の最高境地であることをはっきりと物語っている。この文学史上の名句が芸術論の範疇でも不朽な名句であると賛辞を送りたいである。批評論では、劉?の『文心彫龍』が文学論に似合わず華麗な言葉遣い、整然とした文体を選んで論述を展開する例を見れば十分わかることである。直接露骨な言葉よりも、華麗な語彙を駆使し、含蓄な隠喩と象徴的な暗示の力によって、読者の想像を膨らませ、その文学論を感じ取らせ、そして論点の終着点を悟らせる目的を達成させる。ここもやはり理解させるというよりも、感じ取させる、悟らせることが思考法法の特徴と捕らえるべきである。余談ですが、絵画の世界では墨一色の水墨画がかなり特殊に思われるが、彫刻の分野では素材の元来にある色や質感を生かし、対象物の色と距離を置くことは一般的である。両者が全く違う種類の芸術ですが、作品の対象物の色彩を無視する考え方は全く同じであり、誠に興味深い現象である。そのへんの話が別の機会を待ちたいところである。

 誤解されないためにも、重ねて強調しなければならないのは、"虚"、"無"というのは物理的な色彩や形等が全く無いのではなく、あくまでも表現したい"意"が視覚的に直接結びつかないことであると理解すべきである。『深山蔵古寺』、『踏花帰来馬蹄香』といった逸話がなによりもこの意味を物語っている。

 このように"虚"、"無"、"空"といった思想のもとで、"意"の表現を最高目標とする、含蓄な隠喩や象徴的暗示を表現方法とする文化心理や芸術思考、審美習慣を持つ伝統は、言葉のいらない哲学思考(以心伝心)、音のない音楽の可能性(無声勝有声)、現実の色彩を無視する絵画──墨一色の水墨世界を生み出し、我々に偉大な遺産を残してくれている。その伝統をもとに、今日の私は形のない絵、つまり抽象絵画の試みに挑んでいることも極自然の成りゆきと信じている。作者の思考や感情といった"意"を現実の形や色に束縛されずに鑑賞者に直に訴え、感じ取らせ、悟らせるには抽象の方法がもっとも適すると理解しているから。絵画という領域の中で、我々の先人達が現実世界の色彩を捨るという勇気ある選択の結果として水墨の伝統を作り上げて来た歴史を大事にするこそ、挑戦を恐れずに新しい実験をし続ける必要があり、また新しい表現の実験や芸術思考の探究すをることが伝統に対する真の伝承であり、現代に生きる我々の責任でもあると認識している。

 水墨画の伝統や現代於いての位置付けと役割など問題に対する理解や認識が人それぞれであり、このへんはそれぞれの作品の違いを見れば明白であり、また当然の結果でもあることを最後に指摘しておかなければならないである。